あの広い中国で全土に知られるほどの歌手になるにはどうすればいいんだろう?というのを、何人かのパーソナルヒストリーから考察しようというシリーズ企画(のつもりだったんだけど大分間が空いた)。
Net Flixで本国とほぼ同時並行で日本でも配信されている「難哄(邦題:あの日の君と)」。沢山の楽曲が使われていたけれど、主人公が孤独な夜を過ごす時に流れるしみじみとした曲「只在今夜」を歌っているのが毛不易だ。
…そんなわけで今回は「毛不易」です。資料は主に百度百科と中文版Wikiより。
ここから先は「明日之子第一季」のコンペ結果のネタバレが含まれます。ご注意ください。
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毛不易Mao Buyiって誰?
「東北民謡」の記事でも書いたけれど、一応簡単な紹介を。毛不易は1994年生まれ、黒竜江省ハルピン出身の男性歌手だ。2023年末の「江蘇衛視跨年演唱会」や「我们的歌第六季」で刘宇宁とデュエットしていたのを覚えておられる人も多いだろう。顔も眼鏡も真ん丸、といった感じの人だ。「中国のボブ・ディラン」「若き李宗盛(ジョナサン・リー)」等と紹介されるけれど、要はギター一本で歌うシンガーソングライターという点が似ているってことだと思う。
毛不易は音楽の専門大学を出ているわけではなく、正式に音楽を学んだことはない。その点は刘宇宁と少し似た経歴なのだがそのデビューは鮮烈で、一夜にしてスター歌手の仲間入りをしたと言ってもいい。
番組出演以前の毛不易
毛不易は本名ではなく、中学時代自ら改名した名前だそうだ。意味は「自分を簡単には変えない」(網易音楽2017.11.14)。
毛不易の大学での専攻は看護師だ。本人は薬学科への転科も考えたが成績が及ばずそのまま看護師コースに留まった、と百度百科にはある。番組に応募する以前の音楽歴は大学でのコンテストに参加したくらいのようだ。
2016年に大学を卒業、看護実習生として働き始める。同じ頃独学でギターを学び、曲作りを始めた。番組「明日之子」で歌われた楽曲は殆ど1年以内に作られた、ということになる。
アイドル発掘番組「明日之子」
「明日之子」は2016年から2021年頃まで中国で隆盛を極めたアイドル育成番組の一つ(勝訊視頻で配信、第5季まで続いた)。大雑把に言うと、三人の審査員(人気歌手でソングライターでもある薛之谦Joker Xue、华晨宇Hua Chenyu、女優でタレント事務所の社長でもあった杨幂)と視聴者投票で当落が決まる、というコンペ番組だ。
結論から言ってしまうと、この番組で毛不易は一躍名を馳せることとなった。曲作りを初めて1年ほどの若者が一夜にして「全国に知られる歌手」になった経緯を少し詳しくみていこうと思う。
番組審査員の発言は私が訳したもので、発言が長いので要約しています。間違っている部分があるかもしれません。ご容赦ください。
変わった出場者:第2期 歌唱楽曲「如果有一天我变得很有銭」
そもそもなんで「アイドル」を発掘しようという番組に毛不易が応募する気になったのか、は資料がなくてよく分からない。ただ、毛不易はこの番組に応募したことを両親にも告げなかったそうだ。
最初の3週は審査員三人それぞれが12名の本選参加者を選ぶ予選会。毛不易は薛之谦が評価するグループの最終演者だった。待っている間に白酒(アルコール度数が高いことで有名。50度越えるものが多い)のポケット瓶(ミニボトルではない)を飲み干してしまい、出演者から「酒臭い」と苦言が。その上ギターの弦がボロボロで歌い始める前に切れてしまい、薛之谦から呆れられる。
そんな雰囲気の中で歌った歌が「如果有一天我变得很有銭(もしお金持ちになったら)」。
「もしお金持ちになったら、謙虚なふりをしてお金が全てではない、と言おう」という皮肉な歌詞を美しいメロディに乗せて歌った。
結果、もし合格できなければ看護師の路を歩むつもりだった毛不易は、なんとか歌手デビューのチャンスを勝ち取ることができた。
「巨星」毛不易:第5期 歌唱楽曲「感覚自己是巨星」
ここまでは審査員各々のグループ内での淘汰戦で12名→8名に絞られる。番組開始直前の人気投票では12人中、11位。…他の参加者がアイドル然としている中で、ビジュアル的には大変不利…だと思う。今週もやっぱりお酒を飲んできたらしい。
「感覚自己是巨星」は「時々自分が大スターになったように感じる」というとぼけた内容の歌。お酒を飲まないと舞台に上がれない程内気なのに自らを「巨星」と言っちゃう辺りが毛不易の真骨頂。
歌い始めると会場の空気が変わり、大いに盛り上がった。薛之谦からは歌詞のオチを誉められ、司会者の张大大からは新しいギターを贈られた。
薛之谦がこのグループの1位に選んだのは毛不易だった。
一躍スターダムに:第7期 歌唱楽曲「消愁」
この回からグループが統合され、審査員三人も勢揃い。番組冒頭での人気度は7位。この回は1vs1の勝ち抜き形式で、相手は「开到荼靡」を歌ったロン毛の耽美系男子。
毛不易が歌ったのは「消愁」。毛不易の物凄いところはこれまでテレビになど出演したことがないにもかかわらず(そしてお酒を飲まないと舞台に上がれない程小心であるにもかかわらず)ステージでの歌唱がほぼ完璧であることだ。一度歌いだせばもう毛不易の世界が広がり、演奏の間審査員三人は何とも言えない表情をしていた。
そもそも歌詞にこだわりの強い薛之谦は「跪きたい」と「消愁」の歌詞を絶賛、华晨宇も「素晴らしい歌詞だ」とコメントした。結果は2対1(杨幂は自身のグループの参加者に投票)で毛不易が勝利し、次の参加者・马伯骞にも競り勝った。但し番組終盤での視聴者投票では5位にとどまった。
たった3曲で大ヒット
ちなみにこの番組、ステージで歌った歌はすぐにQQ音楽、酷狗音楽等で配信されるという仕組み。「消愁」は放送翌日にはQQ音楽でチャートの首位に躍り出、勝訊視頻上で5600万回以上再生された(網易音楽2017.11.14)。アイドル育成番組、しかも選抜の途中でその楽曲が1位になる、というのは(比較データがないのでよく分からないけれど)かなり珍しいことなのではないかと思う。
「消愁」は毛不易の代表曲の一つとなる。Spotifyの再生回数も「不染(ドラマ「香蜜沉沉燼如霜」主題曲)に次いで多い。酒場の喧騒の中で誰も聞いていない歌を歌う孤独な歌手の姿を通じ描きたかったのは、哀しみではなく「悲壮感」だと本人がインタビューで答えている(網易音楽2017.11.14)。必ずしも望んだ通りでない人生を送っている人の、前に進む力になりたかったのだそうだ。
翌週の番組人気投票で、毛不易は見事1位になる。翌週司会者の张大大が明かしたところでは音楽関係者から「連作先教えて!」と電話が入りネットでも「薛之谦が金の卵を発掘した!」と大きな話題になったらしい。
…ここでもう「歌手」として立派に認知された、ということでもいいんだろうけれど、番組はその後もかなりの紆余曲折を辿ることになる。
初めて審査員から苦言を呈される:第8期 歌唱楽曲「像我这样的人」
「消愁」で一気に人気も上昇した毛不易だけれど、わずか1年の曲作りでそんなにストックがあるはずがない。…いや、他の曲も充分なクオリティだと思うけれど、完成度という点では「消愁」に一歩譲るかもしれない。
おまけにこの頃になると他の出演者は「洋楽をクールに歌う」「踊りとラップを披露」「CGアイコンで登場する覆面歌手」等非常に今っぽいパフォーマンスを披露する。この番組は既存の「歌の上手さを競う」ものではなく「アイドル発掘」なので、ギター一本で淡々と歌う毛不易のスタイルは中々厳しいものがある。
「像我这样的人」も毛不易の代表曲だ。自分自身のことだという歌詞は疎外感と孤独が率直な言葉で綴られ、胸を打つ。毛不易の歌は世界を自分と同じように感じる人々へのいたわりと優しさが込められている。ちなみに刘宇宁が「歌手2018」で歌ったのもこの曲だ。
…ただ、審査員は厳しかった。华晨宇には「歌詞はいいけれど作曲はもっと勉強すべきだ」と言われ、薛之谦には「歌詞が貧しい」と言われ投票してもらえず、視聴者投票で辛勝した。
ところが、配信された「像我这样的人」はロングヒットとなった。8/14の酷狗シングルチャートで4位、以降11月の月間チャートまで4ケ月、一桁台の順位をキープした。(百度百科「像我这样的人」)
低迷:第9期・第10期 歌唱楽曲「一程山路」「二零三」
第9期の番組冒頭の人気投票では9人中5位で微妙な立ち位置。
「一程山路」は実習生として赴いていた杭州の自然を歌ったもの。シンプルなメロディと淡々と風景を連ねていく歌詞は如何にも毛不易らしく、深みのある独特の歌声も堪能できる…んだけど、これに対しても非常に厳しい評価が。
华晨宇「歌詞は論文みたいだけど、皆に受け入れられているみたいだからまあいい。それより作曲の勉強をした方がいい。音楽理論は君の助けになるから」
薛之谦「『消愁』は大波だけど、この曲は村を流れる小川みたいだ。本当に巨星になりたいんなら3曲じゃなくて30曲のいい歌を作らないと」
杨幂は「自分自身の物語、自分が思い描くものを聴いている気がするから、皆があなたの歌に共感する」と毛不意の歌を明快に分析してみせた。この週は他のゲストからも(薛之谦が助け舟を出すほどに)ボロボロに言われることに。
翌週第10期、毛不易は冒頭の投票で2位に浮上。
この週の歌「二零三」とは毛不易が住んでいた部屋のことで、可愛らしいメロディの曲だ。
歌い終わった後、毛不易は「自分は平凡な人間だから平凡な人達の為に歌いたい。変わりたくない人は外の声に惑わされず変わらないでほしい」と発言。審査員に何を言われても自分のスタイルを変えるつもりはない、と宣言した。
薛之谦からは歌詞の比喩部分がよく分からないとダメだしされ、退化しているとまで言われた。华晨宇はもっと厳しく「もともと君に期待はしていない。もし本当に創作者になりたいなら毎回新しい創作能力を見せて、もっといい作品を持ってきてくれなければ。今日の歌には失望した」
番組的にはこの回、毛不易は審査員投票で初めて敗れた。それでも人気投票の数字が高く、なんとか生き残ることができた。
正直、この論争はクリエイターの音楽に対する姿勢の違いなんだと思う。薛之谦も华晨宇も「非日常」を歌うのが得意なアーティストだ(华晨宇の演唱会のタイトルは「火星演唱会」だ)。それに対して毛不易は日々の暮らしの中のちょっとした美しいもの・誰もが経験する感情に焦点をあてる。
結局毛不易は譲らなかった。この時歌った「一程山路」と「二零三」はほぼそのままの形でセカンドアルバム「小王」に収録されている。
再浮上:第11期 歌唱楽曲「借」
番組冒頭の人気投票で毛不易は第1位。歌った歌は「借」。「借りる」という言葉に託された詞とメロディが何ともやるせない…名作だと思う。
司会者は街の至る所で毛不易の歌が聴かれていると言い、薛之谦は「消愁」の次に良い歌詞だと評価、「努力を続ければ巨星になれる」と励ました。华晨宇も同様で「ようやく僕の要求を満たしてくれた」「今日の君は巨星だ」と述べた。
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「消愁」から「借」までの審査員(実質华晨宇と薛之谦とだけど)の厳しい言葉は必ず通らなければならない関門のようなものだ。どんな形でデビューしたにしろ、同じような指摘は受けたに違いない。毛不易にだけ非常に厳しい指摘が続いたのは、それだけ毛不易の才能が本物である証なのだろう。
华晨宇は番組の中で「多くの人に毛不易の歌が受け入れられていたことを知って、今のうちに欠点を指摘しておかなければいけないと思った。この番組は出演者を育てることが目的だから」とも語っている。そういえば华晨宇自身もアイドル育成番組出身という経歴を持ち、番組卒業以降の生存競争の厳しさを知っている人だ。
バラエティ番組といえども出演者も審査員も極めて真剣に取り組んでいる、ということがよく分かる。
弱点は合作?:第12期 歌唱楽曲「一半」「南一道街+ North Hollywood」「等」
OP曲も歌って「番組を代表する出場者は毛不易」という感じで始まるけれど、人気投票では4位。その上意外な弱点が露呈した。毛不易って「誰かと一緒に歌う」という経験がなかったのかもしれない。この回は審査員と一緒に歌う、というのがお題だからだ。
「一半」は薛之谦の楽曲…歌っている毛不易がぎこちない。そういえば人の曲をステージで歌うのも初めてだし、その人のオリジナル曲を一緒に歌うのってハードル高そうだ。対戦相手の华晨宇+马伯骞のものすごくかっこよく完成度の高いパフォーマンス(毛不易のステージを除いて番組全体で一番良かったと思う)とは正直雲泥の差だった。
結局前半戦では一票も取れず最下位に沈んだ。
後半の参加者同士のデュエットは出色の出来だった。相手は現在でも歌手・俳優として活躍している马伯骞。二人の合作「南一道街+ North Hollywood」は自分の故郷の話を互いに語るという形式で作られた歌。毛不易らしいメロディの間に入るRap(马伯骞の担当)がとても新鮮。「南一道街」はその後単体でアルバムに収められるけれど、個人的にはこの二人のバージョンが一番好きだ。歌っている二人が本当に楽しそうなのもいい。
华晨宇は「幼い頃の光景が蘇る」と初めて毛不易のメロディラインを褒めちぎった。
前半の0点が響いたせいで最終戦までもつれ、「等(自曲)」を歌って視聴者のリアルタイム投票で最下位で何とか通過。
「歌手」としても一流?:第13期
歌唱楽曲「芬芳一生」(with刘惜君)「故乡游」「Imagine」
直前投票では马伯骞に次いで2位。この週はそれぞれ違う歌手とのデュエットとなる。…相手と眼も合わせられない毛不易はやっぱり不利。「芬芳一生」は毛不易にとって初めて披露する「ラブソング」。…上手だった、歌が。
作る歌ばかりが先行しがちだけれど、毛不易は低くて深い声の持ち主だ。ちょっと掠れたりするのも独特で美しい。この回で毛不易はシンガーソングライターとしてばかりでなく、歌手としての評価も上げた。
「故乡游」は視聴者の一人である病気の少女の為に番組参加者が協力して作った曲を毛不易が歌った。素朴で優しい曲で、毛不易の温かい歌声が染みる。
後半は普通に1VS1のバトルに戻り、対戦相手は再び马伯骞。毛不易は初めて他人の曲、John Lenonの「Imagine」を浪々と歌ってみせた。これもすごく上手い。
毛不易はOSTも沢山歌っていて、しかも結構歌い上げるタイプの歌が多い。本人の自作曲とはかけ離れたタイプの曲で、何でこういう曲のオファーが来るようになったんだろう、とちょっと不思議だった。この選曲が番組側のオファーなのか本人の意思なのか分からないけれど、歌手としての毛不易、という一面もちゃんとアピールできたんだと思う。
「歌手」の誕生:第14期・第15期(最終回)
歌唱楽曲「如果有一天我变得很有钱」(with李天佑)「深夜一角(自作)」(14期)
「意料之中(カバー)」with钟易轩 廖俊涛「青春(歌詞のみ自作)」
「模特(カバー)」李荣浩 毛不易 马伯骞「盛夏(自作)」(15期)
最終結果:優勝
ここから先はあんまり書くことがない。毛不易の歌手・シンガーソングライターとしての地位は確立された。審査員からの厳しいコメントも影を潜めたし(そもそもここからは視聴者投票が全てで審査員に決定権はない)、仮に優勝できなかったとしても毛不易にとって大きな障害にはならなかっただろう。
特筆すべきことは、最終回のゲストはX玖少年团で、夏之光と肖战が一緒に踊っている姿を拝めることくらい(笑)。この頃は夏之光の方が人気があって、肖战は一度もアップにならなかった。
马伯骞とは最後まで人気を二分した。最後の「盛夏」の歌唱は堂々たるもので、番組の締めにふさわしかった。最終投票で薛之谦は「最初は奇妙な若者だとしか思わなかったんだけど…」と声を詰まらせ、杨幂の呼び方は「毛毛」から「毛老師」に変わっていた。华晨宇は「今度一緒に仕事しよう」と言ったものの、最後は马伯骞を選んだ。
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毛不易の歩みを見ていると天才、というのは世に出るべくして出るんだ、としみじみ思わされる。毛不易本人は番組出場は「天の配剤だ」と答えていた。
その後毛不易はアルバムを4枚(その他「明日之子」ライブ収録アルバムが2枚)発表し、沢山のドラマのOSTを歌いヒットさせている。歌手の格付けのバロメーターともいえるCCTV「春晩」にも2年連続で出演。
冒頭に書いた「難哄(邦題:あの日の君と)」のOSTに使われている「只在今夜」は2024年のアルバム「冒険精神」の一曲だ。このアルバムでは初めて他人との共作や、他のアーティストが作詞・作曲した曲も収められており、文字通り冒険精神に富んだアルバムになっている。
長文お付き合いいただき、ありがとうございました。
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題名:明日之子第一季 The Coming One 2017年
総導演:黄洁 ホスト:张大大
出演:薛之谦Joker Xue、华晨宇Hua Chenyu 杨幂Yang Mi