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Beyond「海闊天空」の話

刘宇宁の毎年恒例の微博上ライブ「康乃馨音楽節」。今年も4時間にもわたる熱演でとても楽しかったけれど、個人的に一番嬉しかったのはBeyondの「海闊天空」を歌ってくれたことだ。一度刘宇宁の声でBeyondの曲を聴いてみたかった(直播ではBeyondの曲をちょっと歌ってくれたことも何回かあったけれどフルバージョンは初めて、だと思う)。

今でも晩会やドラマ内で度々聞くことのできるこの歌は、広東語曲の中で最大のヒット曲なのだそうだ(by百度百科)。

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豆瓣より「海闊天空」レコジャケ Beyondの曲はいずれも9点台と高評価だ

あちこちで耳にする「海闊天空」

中国ドラマを観るようになってから、何だかこの曲を聴く機会が多くなった。ドラマ「

風吹半夏」「親愛的・熱愛的」映画「奇迹·笨小孩」等で使われていたし、先日の湾区升明月大湾区电影音乐晚会(タイトル長すぎ)では台湾の歌手・林志炫が圧倒的な迫力で歌ってくれた。試しにSpotifyで検索してみたらカバーが100曲近くも見つかって驚いた。

 

ただこの曲、今でこそ華人なら誰でも知っている(中文版Wiki)と言われているけれど、90年代に出されたBeyondのベスト盤やトリビュートアルバムには収録されていない。90年代大陸でヒットした曲がふんだんに使われていた「繁花」で流れるBeyondの曲は「光耀歳月」の方だ(ちなみに90年代のベスト盤でも大抵「光耀歳月」が最初の曲になっている)。

…一体いつ流行ったんだろう?

 

「海闊天空」はどんな曲?

「海闊天空」は1993年5月発行の広東語曲。アルバム「楽與怒」所収。作詞作曲は中心メンバーだった黃家駒、編曲は日本・韓国で活動する作曲家・梁邦彦

タイトルの「海闊天空」は海や空が限りなく広がっていること、だそうだ。歌詞は人生に迷い挫折を繰り返しても、自由を求め理想を追い続ける…という内容だ。逆境に立ち向かう自分を鼓舞する、というより風雪に耐えながらかろうじて理想に縋っているような、そんな内容だ。

 

「一生自由を愛し気儘に生きる俺を許してほしい/いつか躓くことは怖いけれど/理想に背くのは誰にでもできる/お前さえいてくれれば恐れはしない」

 

この歌はBeyondの悲劇と切り離して語ることはできない。この歌の発売2か月後、グループの大半の曲を作曲していたリードヴォーカル、黄家駒が不慮の事故で亡くなったからだ。

 

Beyondというバンド

Beyondという名前を聞いたことがなくても、往年のTV番組「進め!電波少年」のOPにかかっていた曲を覚えている人はまだいると思う。あれはBeyondのアルバム「継続革命(1992)」に収録された「長城」のイントロ部分だ。

 

Beyondは黄家駒(Vo)と葉世榮(Dr)が1983年に結成したロックバンド。香港に限らずその時代のアジアの音楽はスローバラードが中心で、日本以外で「ロックバンド」という名前を聞くのは珍しかったように思う。中心メンバーの二人以外のメンバーチェンジを繰り返したが88年からは家駒の弟、黄家強(Ba)と黄貫中(G)(こちらは兄弟ではない)の4人に落ち着いた。

所謂アングラバンドだったBeyondは87年にメジャーデビュー。3枚目のアルバム「秘密警察(1988)」内の「大地」「喜歓你」等にヒットにより人気に火が付いた。

 

Beyondの曲は何処で聴いてもすぐにわかる。それほど黄家駒の声は特徴的だ。ナチュラルビブラートのかかった独特の歌声が、腹にずしんと響くヘヴィなサウンドに乗る。

87年のメジャーデビューから93年までにBeyondが出したアルバムは9枚、代表曲は他に「光耀歳月」、香港映画「天若有情」の主題曲「灰色軌跡」、お母さんに捧げた「真的愛你」等。

 

「海闊天空」は日本語版も存在

この歌には広東語バージョンの他に北京語と日本語のバージョンがある。日本語版のタイトルは「遥かなる夢に~Far Away」。

Beyondは1990年に北京でコンサートを開催、最も早期に中国本土でコンサートを行ったバンドになった。北京語盤のアルバムも出している。

翌年1991年には香港コロシアムで大規模コンサートも行った。ただ、売り上げは四大天王と呼ばれた​​​張學友ら第一線の歌手には及ばなかったようだ。黄家駒は弟の家強に「香港にはエンタテイメントシーンはあっても音楽シーンはない」とこぼしていたそうだ(BBC中文版 「海闊天空25年:超越時代的黃家駒絶唱」)。

 

その頃アジアで最大の音楽市場は日本だった。鄧麗君(テレサ・テン)や歐陽菲菲らは既に日本で成功していた。Beyondはアミューズとマネジメント契約を結び、本格的に日本に進出しようとした。1993年までに日本語でのアルバムを2枚、シングルも3枚発売した。「海闊天空」では編曲を梁邦彦に依頼し、元来はピアノソロだった曲に初めてストリングスを加えた。

 

ただ、日本での活動は香港より厳しく、辛いものだったようだ。個人的にも上記のアルバムも話題に上った記憶はないし、それまでに日本でアジアのロックグループが成功した例はない(韓国のグループが人気を博するようになるのはずっと後のことだ)。

Beyondの売り出しにはアイドル同様の戦略が用いられ、その一つがバラエティ番組への出演だった。そして番組のリハーサル中、主唱の黄家駒は高いセットから落ち意識不明となり、6日後に亡くなった。

この事故は日本でもテレビ局の安全への配慮不足、として大きく報じられた。私も暫くの間、この番組の司会を務めていたタレントさんの顔を見るのが辛かったことを思い出す。

 

「海闊天空」は黄家駒の絶唱となった。

リーダーを失ったBeyondはその後も三人で活動を続けたが、輝きを取り戻すことはできず、1999年に解散。以降も再結成したり解散したりを繰り返している。

 

「海闊天空」はいつヒットしたのか?

この曲が他の歌手によってカバーされるようになるのは2000年を過ぎてからのようだ。

2002年に任賢斎と林子祥がコンサートでこの歌を歌ったのを皮切りに、2008年四川省で大地震が起こった際、被災者への応援ソングとして香港の歌手たちによって歌詞を変えて歌われた(タイトルは「承諾」)。

 

その後も「海闊天空」は逆境にある人々への応援歌として歌い継がれた。BBC中文版の記事に依れば2013年北京オリンピックの110mハードルで劉翔選手が負傷退場になった際にも客席から自然発生的にこの歌が歌われた。一方香港ではで2014年の民主化運動などでも象徴的な歌として歌われたのだそうだ。2011年に滾石唱片が公開したMVは、広東語曲としては異例の1億5千再生を記録している。

非常に困難な状況の中で、それでも理想を貫こうと自身を鼓舞するこの歌は、多くの人々の心を立場を問わず代弁してくれるのかもしれない。

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当時特に熱心なファンでもなかった自分が今でも時々無性に聞きたくなるのはBeyondと張學友の曲だ。懐かしいと同時に少し胸が痛む気がするのは自分が年を取ったせいなんだろうか。

最後まで読んでくださってありがとうございました。

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題名:海闊天空 海阔天空 遥かなる空に~Far Away

作詞作曲:黄家駒 編曲:梁邦彦

 

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